閑居六尺

~ あの日、あの時 ~

歴史シンポジュウム

多賀神社

昨秋(鷹取城跡地登山)のご縁で「直方ライオンズクラブ」よりご案内をいただき、直方市中央公民館で9日に開催されたの「歴史シンポジュウム」に参加した。

どれだけの歴史資料が修得できるかと、往復7時間をかけ喜び勇んで出掛けたが、時間も少なくこれまで自分なりに調べた知識以上のものは得られず、多少がっかりした気持ちと疲労感で帰りの足は重かった。
というとお世話頂いた「直方ライオンズクラブ」さんには申訳ないので、良かった点を2・3あげると、まず来場された私と同じ年配らしい皆さんの熱心さ(日頃は女性が多いらしいが、珍しく男性が多かったとのこと)、それと主催の「直方ライオンズクラブ」さんのテーマ選定から会場運営までの取組みの真摯な姿勢などに大変感心しました。(通常このような地味なテーマには、どちらかというとあまり興味を示してくれず? 寒々しい感じがするものだが、主催者の熱意と地元の皆さんの協力で会場を満席にしていた)

福岡県の歴史には欠かすことの出来ない遠賀川の役割
遠賀川は、その源を嘉麻市かまし)の馬見山に発し、飯塚を貫流し直方で彦山川と合流し直方平野を形成しながら、芦屋において響灘に注ぐ、幹川流路延長61km流域面積1026k?の一級河川である。そして流域内には嘉麻市田川市飯塚市直方市といった約67万人の都市を擁し、福岡県北部の筑豊地方において、直方藩の焼物(高取・上野)、石炭(当初は塩田や灯台の燃料用に使われた)などの水上物流により、経済・文化の基盤を支えながら、明治になると石炭産業など日本の近代化の大きな役割を果たして来た。


各パネラー談

上野焼(あがのやき) 渡 久兵衛
よく「加藤清正」が朝鮮征伐より連れ帰った陶工により始められたというが、この説は正しくない。その根拠についてはっきりした説明はなかったようだが? 2002年の上野焼400年祭の自慢話には相当時間を割き、現在韓国・サッチョン市の陶芸家達と親密な交流を図っているとのこと。知識としては、焼物に必要な三要素は‘粘土、松(燃料用)、水’であるということを記憶した。

明元寺住職  鷹取宗恵氏
浄土真宗、在家仏教、世襲制ということで、17代目  浄土真宗では「門徒」、他は「檀家」と呼ぶ(本題に関係ないが)、このため為政者からは徒党を組まれるのではないかとかっては警戒された宗派だった。  
鷹取城の栄枯盛衰は1615年の「一国一城令」を境として、大きく変化していくことになるが、これは徳川家康(1616没)から家光へ、黒田如水(1613没)〜長政(1623没)から高政(四男分家東蓮寺藩ー後に直方藩・四万石)に引き継がれて行く時代背景であった。徳川300年の歴史とともに以降1720年の長清の死まで約100年に渡って続いた。 一国一城令により壊された城石により、福智谷は木が育たなくなってしまった。
家訓として “焼き鳥を食らうべからず”というものがある。(姓から来ていると言う、なるほど)

母里太兵衛の子孫  母里聖徳氏
特に史実としての話より、‘存在そのもの’と‘出たがり’(ご本人がそうおっしゃっていた)でパネラーとなっていたようだが、現在の福岡在住一族が誰一人として、一度も「鷹取城」に登城したことがないとは!(このお城に、縁があるかないか分からない私でさえ4時間もかけて来るのに) そう言いながら 〃母里〃を‘モリ’と呼ばせず‘ボリ’と呼ぶのが正式であると言う。 (彫刻家と言っていたが、これが芸術家らしいのかな?)

日記としては 未消化な感じだが こういう次第であった。


主催された「直方ライオンズクラブ」の皆様にはお誘いのほか、開会のご挨拶のなかで紹介頂き、有難うございました。 時間の都合上最後の方は聴かずに帰りましたが、もしこのブログをお読みでしたらお気を悪くなさることなきよう! また何か機会がございましたらよろしくお願い致します。

立派なお社の「多賀神社」にはきちっとご参拝して帰りました。